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吉野家では2017年2月、高齢者向け牛丼の具「吉野家のやさしいごはん 牛丼の具」の発売を開始した。特に咀嚼・嚥下機能が低下したご高齢の方でも、美味しく、楽しく食べられる牛丼の具だ。これを開発したのは、新業態事業本部ケア事業で事業部長を務める佐々木透。開発に1年以上をかけ、100回以上の試作を繰り返して完成したこの商品を、佐々木は「自身が歳をとった時に食べたい商品」と表現した。「介護施設に入っている方々は、自分で食事を選ぶことができません。この『吉野家のやさしいごはん 牛丼の具』をご飯と一緒に、時々でも召し上がることで、食べる喜びを思い出していただけたらと思っています」。
吉野家と介護食。これには、佐々木の個人的な体験と思いがあった。佐々木は高齢の両親に冷凍牛丼を送っていたが、88歳になる父親には肉が大きく、食べることが困難なことが分かった。「なんとかして食べさせたいという気持ちがありました。そんな折、企業内起業の公募があり、高齢者向けの牛丼の開発がしたい」と手を挙げたのが始まりだった。佐々木のチャレンジを吉野家が採用したのには理由がある。1980年、急速な店舗拡大に伴い一度会社更生法を適用している吉野家では、会社が倒産しても吉野家の牛丼を食べ続けてくれたお客様は、当時働き盛りの30代。それから約40年経った。「吉野家を支えてきた方たちが高齢となり、恩返しの意味も込めて、当社の牛丼を末永く召し上がっていただきたいという思いがありました」。
この「吉野家のやさしいごはん 牛丼の具」には、弱い力で噛める「やわらかタイプ」と、舌でつぶせる「きざみタイプ」がある。店舗で提供する牛丼よりも肉がやわらかい吉野家の冷凍牛丼が食べにくいと感じると「やわらかタイプ」を、嚥下障害があると「きざみタイプ」を選択するケースが多いという。通常の牛丼よりも具材が小さめになっているので、食べやすそうな印象だ。「肉、玉ねぎの形状を変えるということは、吉野家らしさを出すにはあとはたれしかない。だから、たれの味は死守しなければという思いでした」と佐々木。
厚生労働省の規定では、高齢者が摂取できる1日の塩分摂取量を6.0gと規定しており、1食分で2.0gにとどめる必要があった。しかし、店舗で提供する牛丼の塩分量は2.3gあり、これを高齢者向けに使うことはできない。こだわりを守り抜く決意をした佐々木は、自ら大変な闘いを課したのだった。
2015年末に社内プレゼンが通り、佐々木は高齢者向けの牛丼開発に向けて走り出した。市場にある介護食を調査し、口腔外科や管理栄養士ら専門家にも話を聞いた。高齢者の食事で気を付けなければいけないのは、咀嚼や嚥下機能の低下で生じる誤嚥性肺炎だ。それを防ぐには、食材を小さくしたり、とろみ付けが必要だったり、また塩分量を調整する点もクリアしなければいけなかった。
外食産業で介護食を販売する企業はなく、佐々木はテストマーケティングを行った。2016年3月、広島県で開かれた介護事業関係者の集まりに参加し、感想を求めた。「介護食で吉野家の牛丼が食べられると喜ばれましたが、まだまだ磨く必要があると意見を頂きました」。
とろみを付けることで味が濃く感じられるので、単に塩分を減らせばいいと佐々木は考えていたが、そう簡単ではなかった。「だしを効かせて減塩する手法では、吉野家の牛丼のうまさは再現できない」。そこで、吉野家のたれの味を分析して、甘味、辛味など構成要素を計測し、様々な素材に置き換えて、正解を探っていった。
2016年9月、今度は新潟で行われた摂食嚥下リハビリテーション学会で商品を披露したところ、約600人の介護施設関係者らが試食し、高評価を得た。だだし、管理栄養士からは、こんなアドバイスが。「塩分相当量に該当するナトリウムの量を下げて、カリウムを多用していたのですが、腎臓疾病の人には多すぎると言われて……。最終的にはそこから3か月をかけてさらに3分の1の量を減らしました」。高齢者の命に係わる介護食で吉野家の牛丼のうまさを実現するには、最後まで気の抜けない状態が続いたのだった。
先の学会で、高齢者向け牛丼の試食会を行った際、『こういう食事を待っていました』と喜びの声を上げる人がいた。東京医科歯科大学で高齢者の摂食機能障害・リハビリテーションを専門とする戸原玄准教授だ。「胃ろうではなく、人間は食べる、噛む、飲み込むという行為が生きようとする力になると主張する先生が、この牛丼に共感してくださいました」と佐々木。
介護現場を訪れて目にしたのは、高齢者の食卓の現実だ。「高齢者は病気ではないのに、病院食のような味気ない食事をすることになり、食べる量も必然的に落ちてしまう。そこで、インパクトのある牛丼が出ることで、食への意欲が取り戻せるのではと思いました」。戸原准教授の協力により、2016年末に介護施設で実際に牛丼を試食してもらう機会を得た際、普段食欲のない入居者たちが完食し、なかにはおかわりしたいという声も上がって、佐々木は手ごたえを感じたのだった。
店頭で売られる牛丼の並盛が380円であるのに対し、介護施設で一食あたりの食品にかけられる費用は約200円。さらに冷凍保存・輸送などを考えるとこの価格での提供が難しいため、佐々木はイベントとして牛丼を出すことを提案した。メラニン製の小ぶりな丼やスタッフ用の法被を製作し、2017年1月に介護施設3か所で試食イベントを開催した。「皆さん、楽しそうに召し上がっていただけて、私も含め、現場にいたスタッフが涙ぐんでしまうほどでした」。
2017年2月の商品リリース後、3か月間で、全国の施設約50か所から注文が入り、グッズも併せて貸し出している。「介護施設では、イベント準備がスタッフの方々の労働負荷になっているとも聞きます。牛丼の日を行うことで、負担の軽減につながればとも思います」。
吉野家の118年という長い歴史のなかで、この「やさしい牛丼」はまだ誕生したばかり。「日本中の介護施設をもっともっとまわって、良さを知っていただきたい。そして、日常的にリピートしてもらうまでになってほしい。食べたことない人に『どうせ味が薄いんでしょう』って言われるのが悔しいですから、まずは食べてもらいたいですね」。